名もなき日々の備忘

日常の中で感じたこと、書評、資格、趣味、ぼやき等

書評「発達障害の人が見ている世界」

月に一度は更新しなくてはという義務感と同時に、何かを文章として書き出したいと言う願望に突き動かされた私の重い指により、この日記のようなブログは約1ヶ月半ぶりに更新されることになる。(勉強続きで背中の痛みを生じ、床に横たわりながら)

今回は読書感想・書評として「発達障害の人が見ている世界 著 岩瀬利郎」に書いてみよう。

この本を書店で手に取ったのは昨年の9月か10月くらいだろうか。自分は発達障害傾向があるのでは?と昔から感じていたこともあり、書店で立ち読みすると読み入ってしまった。

特に注意欠陥・多動衝動、こだわりの強さ等よく知られた特性以外にも、発達障害の人には傷つきやすさ、自信のなさも共通して多く見られることを著者自身の経験から見出しており、今まで読んだ発達障害(主にadhd)関係の書籍にはない、私自身のことについて新たな気付きにも繋がる視点であった。

結局のところ、グレーゾーンの人や、自分ももしかして?と思っている人を救うものは診断による確定ではなく、脳の特性によって生じる考え方・行動がある程度パターン付けされていることを知り、自分に共通する部分を学ぶこと通じて自己への理解を深めることに尽きるのだと思う。それは発達障害であっても正常発達であってもその中間であっても変わらない。自分を嫌いにならずに済むため、知ることは誰にとっても救いになり得ると思う。

世間的には発達障害という概念が随分浸透したと思う。ただ、自らが当事者でなくとも、一部の人たちには、社会にはこんな人たちもいるということを知ってもらいたい。そうすれば無知ゆえに生じる軋轢は回避できる。大学時代のある知人を思い出すと、そう思わずにはいられない。

 

2024.2/18夜描き始め

至2/19 退勤電車の中

 

 

 

年末年始

私の勤め先は、12月30日から休みに入り、仕事始めは1月5日だ。世間の休みとはちょうど1日ずれている。

今日はそんな一年で最も長い休みの最終日だが、今日以前の連休中と同様、殆ど資格勉強に充てた。今の私にとって連休は心身を労うためにあるのではなく、勉強のために使えるありがたい時間である。

というのは、今年の6月に日商簿記検定1級を受験予定であり、予備校の通信教材で学習中だからだ。

まあ、勉強がなくても年末年始は毎年特段することはないのだが、なんとなく見ていた箱根駅伝を今年は一切見なかったためか、一年の区切りがついた感じがしていないのは否めない。

一年に限らず、ある期間が終わることのルーティンは人それぞれあると思うが、私にとってはそれがだらだら正月料理を食べながら箱根駅伝を見ることだったのだろうか…

今年したいことを綴ることでその代わりが出来るだろうか、とりあえず書いてみる

・6月 日商簿記一級合格

歯列矯正を始める

・13年ぶりに自転車を買い換え、サイクリングする

・カメラを買って旅先で写真を撮る

・一人暮らしを始める

 

ぱっと書き出せるのはこんなところだと思う。

一年の区切りがついた感じがしないと言ったが、昨年中に元彼女との思い出の品をある程度片付けることができた点は、気持ちの整理という面では良かっただろう。

今年は変化の多い年になりそうだ。と言うより、自分の行動によってそれをもたらしたい。

 

最後に、新年早々災害・事故で大変な目に遭われている方々には一刻も早い回復をお祈りします。

 

自分がこうして日常を送れることに感謝すること、それを忘れないようにしつつ日々自分のすべきことに没頭していきたい。

 

2024.1/4(木)

於 連休最終日の自宅リビング

 

 

 

これまでとこれから

はじめにタイトルを考えてみたが、肝心の本文が思いつかない。何を書けばいいのだろう?

25歳になったのが先々月(10月)、5年付き合った彼女と別れたのが誕生日から1ヶ月後の先月(11月)である。

まあしかし、短いわけでもないが決して長いとは言えないこの四半世紀を一度振り返り、そしてこれからのことについて考えてみるにはいい機会だろう。

 

25年間生きていて感じずにはいられないことがある。

自分は人生における自己決定感と言うか、自分の人生に対する当事者意識のようなものが、精神的に成熟した同年代より低い、あるいは欠如しているのではないかということだ。

一言でいうと、自己肯定感が低いのである。どうしてこうなったのかはっきりとは分からないが。

そして、その自己肯定感の低ささえも周囲に悟られないように隠してきた結果、自分の本心そのもの、自分はどうしたいかという意思そのものを蔑ろにしてきたことに長らく気づくことができなかったように思う。

 

その傾向は殊恋愛において顕著に現れる。

好きになってくれた人を好きにになり、執着してしまう傾向だ。そこに自分の自由意思らしきものはないのである。

また、努力が成就せずにとっくに楽しくも無くなっていた競技を7年以上義務感で続けたことも、今思えばそうなのかもしれない。

 

まだ半分くらいしか大人になった気がしていない自分がブログを描き始めようと思ったことには、何か大きなきっかけがあったわけではない。

自分が感じたことや思ったことを、節目節目で時折り振り返ってみたいと思っただけだ。

ただ、写真が一瞬を切り取ったものであるのと同じように、自分の思考・感情をその時の感度で文章化することには少なからず意味があるのではないかと思う。

 

頭で分かっていても行動に繋げられるかは別問題だが、これから自分は、自分の確かな意思で今後の人生において幾度となく訪れるであろう選択肢に対して答えを出したい。人生は選択の連続であり、その選択に対して自ら責任を負いたいと切に思う。他に誰も責任をとってくれる人などいないのだから。

 

このブログの内容は、取り止めのないぼやきから学びの発信など、脈絡のない雑多ものになると思う。私自身書くという行為を通じて何か得られるのではとただ漠然と思っている。

拙い駄文でもお付き合い頂ければ幸いだ。

 

 

2023.12/29(金)

於 仕事納め帰りの電車